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示現流について:門人略歴

以下の内容は示現流、門弟などのの歴史をまとめた「武芸の相伝書 -詳解・示現流聞書喫緊録-」の内容より抜粋したものです。

*示現流喫緊録----天明元年(1781)門弟の一人である久保七兵衛紀之が記した。
二代:重方以来、門弟の名のみ記していたが、後代の栄誉を書き残し流祖:重位公の境地に至るため書き残した。寛永元年(1785)二代:重方〜五代:實オまで。

第五代宗家 東郷 藤右衛門 實オ

(上手く表示されない方へ。「日」偏に「方」旁です。)
(とうごう とううえもん さねはる)
正徳元年(1711)生。位照の嫡男。
重治の死去に伴ない、二十三歳で家督を相続した。
薬丸兼慶、救仁郷伯水の所で稽古に励む。
重治から「立」「双」「越」(初段)の打を伝えられ、他の打は伊集院平六から伝授されたという。
寛政元年(1789)没。

薬丸 正右衛門 兼富

位照に師事し、三段を受ける。
ある日、清水休右衛門(当流二段、鏡智流槍術の上手)が兼富宅に来て、父の兼中と意地について論議を始めた。結論は出ず、しまいには唐竹竿にて実際に技を試すに至り、清水が唐竹竿にて突くのを兼中は留めることができなかった。
そこで清水はさらに兼富をも呼び寄せ、「親子とも芋の串差しにしてくれる」と、立ち合立合ってみると、兼富はことごとく突きを叩き落した為、清水は嘆賞して帰ったという。

久保 七兵衛 之英

位照、第五代實オに師事して当流を学び、位照より四段を受ける。
薬丸氏と親しく、天明八年に次男七郎を兼富の養子とした。
天明元年(1781)五十二歳で『喫緊録』を著し、他に『見聞秘記』『緊要子弟訓』『関ヶ原御合戦進退秘訣』を著す。

竹迫 藤四郎

明和四年(1767)『諸御門人兵法之話』を著す。
妻子にあてた書簡が今に残り、常日頃の心掛けを仔細に及んで説いている為、後の世の武士が、士道の手本として珍重し、書き写している。

第六代宗家 東郷 藤兵衛 實乙

元文三年(1738)生。
父、藤右衛門の後を継ぎ、多数の門人を教導した。示現流中興の祖といわれる。
文化元年(1804)没。

第七代宗家 東郷 藤兵衛 實位

明和五年(1768)生。父の業を継ぎ、門人多数。
嘉永四年(1851)没。

島津藩主 島津 斉興

十七の時、江戸高輪御殿で東郷實守から当流を学び、以来熱心に稽古し、ついに實位より皆伝を受けた。
歴代藩主中、皆伝を受けたのは家久公候と斉興公候の二人だけである。
嘉永元年(1848)七月に伝授を受けた後、示現流を「御流儀」と称すよう沙汰を下す。
重位の月命日である二十七日には、既に来訪する事が絶えていたが藩主のための紫色の大きな座布団が宗家の上座に置かれ、戦前まではそれが続いていたそうである。

 

第八代宗家 東郷 藤兵衛 實明

文化十三年(1816)生。
實位が子に恵まれなかった為、代わって弟實守の子、實明が道統を継いだ。門人多数。
明治維新は、この實明の代になる。
明治五年(1872)没。

東郷 六郎兵衛 實政

東郷實守の次男で、實明の実弟。戊辰役に従軍、のち鹿児島警部長。
幼少より当流を学び、四段を受ける。
示現流の主意を聞かれ、「逆なるものを忌み順なるを養う。逆抜きはそれ限りに太刀が死ぬ、直に振り上げて打つのが天然の姿で、これを養成し強く早く打つ。体もまた初めから作らず、突っ立ったままでよい。天然を主として、其の良い所を取って養成するにある。面小手の稽古は術を巧みにする。 対して示現流は、立てば磐石の如く、来る者は打つ。敵は幾らでも構わず相手を 選ばぬ法であります。」と答えている。

指宿 五左衛門 行義

始めは實守に師事し、立木を打たぬ日は無かったと言われる程、熱心に励んだ。
慶応三年(1867)十二月二十日、大阪で陸軍医の前田静安と共に外出したところ、心斎橋通りで薩摩藩士を斬ろうと待ち構えていた奥州会津藩士八人と斬り合いになった。
指宿は、近寄る敵を四、五人も斬り伏せたが、不運なことに高下駄の鼻緒が切れて転倒し、更に起き上がろうするのを、寒さしのぎのため二つに折った毛布に緒を通して纏っていたものに妨げられ、ついに斬り死にしたという。
享年二十八才。
未だ「段」の打は伝授されておらず、戊辰役の前年の出来事であった。
事後、同伴していた前田氏は戦わずに遁走した上、自ら傷を創り、「斬りつけられて昏倒し、気がついた時には誰もいなかった。」等と言い訳をしたが、朋輩はその卑怯な振る舞いを責めて之を誅した。
指宿氏の柩に、焼香した前田氏の首を斬り落して後、その柩を蓋って、指宿氏の御霊を慰めたという。
さらに維新の後、前記大阪で指宿氏と戦った一人が鹿児島を訪れ、ある人に「過年、大阪で指宿氏と切り結んだが、氏の腰より振り出す技の鋭さには、ほとんど抗し得なかった。他流には見受けられない早業であったが、何流を修めておられたのか。」と尋ねたともいう。
また、この教訓を生かし、薩摩の兵隊は厳寒の候にも、身に毛布を纏う事を禁じられた。

椎原 与右衛門 国幹

文政三年(1820)生。幼少より当流を学び、四段を受けた。
斉彬公に仕え郡奉行役、廃藩後大山県令の民事総裁を勤める。 
老年ながら西南役に従軍し、延岡において官軍に降り、國事犯として裁かれたが、法廷に於いて堂々と自己の所信を陳述し、傍目にはどちらが罪人かわからぬ程、立派な態度であったという。
出獄後、鹿児島学校長。品性高潔、気骨の士という。
西郷隆盛の叔父で、娘は川村純義の妻女である。

渕辺 群平 高照

天保十一年(1840)生。
幼少より当流稽古に励んだ。
戊辰役では、監軍として黒田清隆隊に所属し、謀議に参加。
越後口へ出軍し、長岡城攻略の際は城中へ攻め入って数多くの敵を斬り、刀が鋸のようになったという。
西南役では、薩軍本営付護衛隊長。後、鵬翼隊大隊長となる。
大野方面に在った時、人吉の急を聞き、球磨川に架かる大橋に馳せ参じたが、既に自軍は敗色濃厚で制し得なかった。
そこで渕辺氏は、橋に火をかけ、敵を食い止めるべく陣頭指揮に当た当たったが、飛来した敵弾に下腹部貫通銃創を負い、大畑に退却。
さらに吉田に至った三日後の六月二日、死去。
享年三十八歳、亡骸は浄光明寺に葬られる。

町田 権左衛門 実文

弘化二年(1845)、新屋敷に生まれ、實明に師事し、両度を受けた。
巨身にして膂力に富み、釣りを好んだという。
戌辰、西南役に従軍。
西南の役では、三番大隊六番小隊長となって田原方面で激戦、三月二十日に向坂にて十余名を率いて戦っていたが、部下に手帳を託して「余死するの後、之を本隊に致せ」と言い残し、弾雨のなかを奮戦。
十余名を斬り倒したが衆寡敵せず、ついに剣をつき直立睥げいしたまま事切れたという。
享年三十三。 

松方 助左衛門 正義

第四代首相。 金本位制を実施した。四段を受ける。
生麦事件の際、奈良原喜左衛門らが英人を斬りに走ったのに対し、松方は、「駕籠脇を離れるな。」と島津候の駕籠から離れるのを制止したという。
この行列の中には後の元帥、伊東祐亨もおり、「英人を追うことができず残念であった。」と語ったという。
また、五十歳前で帰郷した折に門弟同士で力くらべが始まり、一人が水のいっぱい入った一斗桶(18リットル)を両腕に通して歩いてみせると、「俺もできる」と同じ様に庭を周ってみせたという。

 

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